最終更新は2024年3月21日です。
群馬県高崎市岩鼻町の「群馬の森」公園に2004年に建立された「記憶 反省 そして友好」の碑が、2月2日までに群馬県によって完全非公開で破壊されました。
戦跡ネットは、1月28日に山本一太県知事に対して右のような要請文を送り、群馬県ホームページ「知事への提案」にも投稿しましたが、残念ながら思いは伝わりませんでした。
千葉県柏市の高射砲訓練所が11月24日、国の登録文化財に答申されました。この建物は「馬糧子」と言われていましたが、その後の調査で1938年頃に建てられた「照空予習室」とわかりました。新聞報道によると、よく似た建物は全国で2例しかなく、測遠機を引き上げるクレーンの支柱も現存するのはここだけです。
老朽化のため取り壊される予定でしたが、市教育委員会が調査をして、その結果をもとに市民団体「柏歴史クラブ」が保存運動を続けられてきました。市民と行政が協働したすばらしい取り組みは全国でも学ぶ所が多いです。
残念なお知らせです。
横須賀市追浜の日産追浜工場内に残っていた横須賀海軍航空隊の格納庫が23年の初頭に解体され消滅したと「日本戦跡協会」のツィッターで発信されました。
先進的な地域を見習って全国規模で、戦争遺跡を遺物包蔵地に記載していく必要を感じます。
格納庫の画像や詳細については、以下のページをご覧下さい。(掲載時期が過ぎた場合はご容赦下さい)
ただし、ヤフーニュースの記述の中で、誤りが二つ指摘されていますのでご紹介します。
〇横須賀市内にも「野島掩体壕」などが残っている→野島掩体壕は横浜市です
〇横須賀市教育委員会文化財保護課→横須賀市教育委員会生涯学習課文化財担当
中国から日本に収奪されている文化財を返還しようという運動が始まっています。収奪した文化財を「盗掘品・盗難品・戦利品」という意味を込めて「瑕疵文化財」と呼びます。不動産の「瑕疵物件」は問題点を所有者が告知する義務と説明責任があり、同じようにその文化財の履歴や問題点を明示する必要があると思います。
今回問題にされている「瑕疵文化財」は、靖国神社と山縣有朋記念館にある「石獅子」と皇居(吹上御所)にある「鴻臚井碑」です。どちらも早く中国に返還すべきです。
運営委員の東海林さんが共同代表を務められ、集会でも講演をされます。
港区立産業振興センター(札の辻スクエア11階)で13時15分からの開演です。
中国文化財返還運動を進める会では、ブックレット『中国文化財の返還 私たちの責務』(500円)も発刊されています(左写真)。上の二つの「瑕疵文化財」がどこから、どのように日本に収奪されてきたのかを、日中の研究者がわかりやすく書かれています。
会場でも販売されると思いますので、ぜひお求め下さい。
戦争責任や植民地責任を認識することが、アジア各国との和解のポイントです。特に植民地責任については、戦争遺跡研究でも大きなテーマになってくると思います。
可能な方はぜひ集会にご参加下さい。
調布飛行場の掩体壕を保存する会の金井さんからの情報です。
2017年から20年にかけて、(公財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センターが、同市の舞岡町と吉田町にまたがる「舞岡熊之堂遺跡」で行った発掘調査で、縄文時代および弥生時代の集落が発掘されました。
この調査で予想外だったのは、アジア太平洋戦争末期の照空隊陣地跡が見つかったことです。
円形部の直径が10メートルもある全長23メートルの柄鏡型の遺構が見つかり、川崎市黒川で調査された照空隊陣地跡と照合の結果、この遺構が照空灯(サーチライト)を設置する掩体跡であることが判明しました。
さらに聴音器掩体跡や通信室跡が見つかり、黒川の事例から照空分隊の陣地跡だと分かりました。さらに囲隔施設、通信室、機関砲座などを備える照空中隊本部跡も調査されました。殺虫剤(フマキラー)の瓶やバッテリー、碍子、機器をつなぐケーブル、電話交換機などに使う空気式乾電池、照空灯の光源に使用した炭素棒などが出土しました。
この陣地は、関連史料の調査から高射第1師団の高射砲第117連隊第3大隊(第1・第2大隊は高射砲隊、第3大隊が照空隊)の第14中隊に所属するものであると分かりました。
埋蔵文化財センターが制作した動画では、発掘調査された照空隊陣地の全容を3D映像で紹介し、照空隊の仕組やその組織を分かりやすく説明しています。
https://www.youtube.com/watch?v=m58Fly-uaaM
チラシにあるとおり、横浜市の戸塚区役所(8月9日〜23日)、舞岡地区センター(8月25日〜9月14日)で令和4年度横浜の遺跡展「横浜市戸塚区舞岡熊之堂の戦争遺跡―太平洋戦争末期の照空隊陣地跡の発掘」が開催されるほか、2023年には横浜市歴史博物館で縄文・弥生時代も含めた舞丘熊之堂遺跡の展示が計画されています。
照空隊陣地は、高射砲陣地に較べると地表面にその痕跡が残りにくいものですが、発掘調査によって、照空中隊本部と中隊所属の分隊の陣地が鮮やかに蘇り、大きな成果が上がりました。
日吉台地下壕保存の会の方の調査によって、海軍の瀬谷補給工場跡の戦争遺跡が確認されました。
この場所は戦後すぐに米軍に接収され「上瀬谷通信基地」として使用されました。
数年前に返還され、2027年の「花博」会場として使用されることが決定していますが、調査によってコンクリート構造物などが残っていることが確認されました。
横浜市教育委員会文化財課も遺構についてはよく知らなかったようで、近いうちに文化財課や都市整備局と面談をする予定だそうです。
瀬谷補給工場跡の調査について、日吉台地下壕保存の会の会報148号と149号に詳しく掲載されていますので、PDF版をご紹介します。
貴重な戦争遺跡の保存と活用を進めたいです。
明治大学平和教育登戸研究所資料館が、22年7月30日に、シンポジウム『「戦争を伝える」ということ』をオンライン方式で開催されます。Zoomのウェビナー機能を利用したオンライン方式での開催です。定員は400名(先着順)で、参加費は無料です。
戦跡ネットでもご活躍された渡辺賢治さんなど、長年学校教育の現場で歴史教育・平和教育に尽力してきた3名の方が、これからの担い手である現役学校教員の先生方、教員を目指す学生の方々に向けて、先輩教育者として「戦争を伝えるということ」を伝えるべく、発表やディスカッションを行い、参加者からの質問に答えて下さいます。
参加を希望される方は、noborito@mics.meiji.ac.jp に氏名・メールアドレスを添えてお申し込みください。申し込みの締め切りは7月25日(月)です。
また、詳細はこちらをご覧下さい。
調布飛行場に隣接する都立武蔵野の森公園内には、飛行機を空襲から守るために格納した鉄筋コンクリート製の掩体壕が2基保存されています。公園の開園以前は、 この一帯には東京都の街路や公園に植樹する樹木を育てる苗圃があり、掩体壕は倉庫代わりに使われていました。公園の建設計画に際し、当会は東京都の建設局に対して掩体壕の保存要望を提出し、併せて調布飛行場の戦争遺跡について広く知ってもらうために、講演会や見学会、展示などを開催して、保存運動を行ってきました。
こうした活動の結果、掩体壕1基(大沢1号)は保存、ただし内部の劣化が著しいため、樹脂材で充填、補強することが決まりました。もう1基(大沢2号)は、都道建設のため取り壊す予定でしたが、そのままの状態で保存されることになり、現在でも、見学会の時には掩体壕の中に入ることができます。公園整備事業の一環として、調布飛行場の歴史を紹介する説明板や大沢1号の傍らには内部に3式戦闘機「飛燕」を格納した掩体壕の10分の1の模型も設置されました。公園を管理する武蔵野の森公園サービスセンターには、事業用地内から出土した陸軍の100式輸送機のプロペラも展示され、見学に訪れる人に戦争の記憶を伝えています。
●ガイドブック『つばさに託して〜武蔵野の森公園の戦争遺跡が語り継ぐこと〜』(A5版 71頁)
当会が発行した武蔵野の森公園の戦争遺跡を解説するガイドブックの概要は、次のとおりです。
序 章 80年前、ここは陸軍の飛行場だった
第1章 武蔵野の森公園と戦争遺跡
第2章 調布飛行場とアジア太平洋戦争
第3章 調布飛行場の戦後
第4章 敗戦直後の調布飛行場と三鷹研究所
第5章 調布飛行場の掩体壕を保存する会の活動
終 章 語り継ぐ平和への祈り
あとがきにかえて
●動画の公開
コロナ禍のため、見学会を企画し、参加者を募集するタイミングを図ることが難しいため、その代替として動画を制作することを公園サービスセンターから提案され、武蔵野の森公園の戦争遺跡を紹介する動画が制作されました。動画は、YouTubeでご覧いただけます。
◆武蔵野の森公園の戦争遺跡
①出土したプロペラの展示(8分43秒)
②掩体壕(8分8秒)
◆ガイドブックの入手方法
武蔵野の森公園サービスセンター(042-365-8435)に電話で在庫を確認のうえ、スマートレター用の封筒(右画像)を郵便局やコンビニで買い求め、郵便番号・住所・宛名を記入して、サービスセンター(〒183-0003府中市朝日町3-5-12)に送っていただく方法が便利です。
戦後、米軍に接収された調布飛行場には、プロペラを取り外すなど武装解除された状態で多くの軍用機が放置されていました。飛行場周辺の住民は、監視の眼をかい潜って、飛行場からさまざまなものを持ち出し、その一部は農具などに転用されました。そのような来歴を持つと考えられる飛行機の尾翼部品が、飛行場に隣接する府中市白糸台の個人宅で76年間保存されてきたことが、府中市史編さんのための調査で確認されました。市史編さん担当者が、考古学の資料調査方法を活用して尾翼部品の実測図を作成し、詳細な観察を行い、2021年8月4日から10日まで府中市の市民活動センタープラッツで開催された「平和展」で速報展示しました。
また、実測図の作成時に翼下面に確認されていたステンシル文字「7右」は、専門家の解読と百式司令部偵察機Ⅲ型の製造番号が5005番以降であることから、再度、詳細に観察した結果、かすれていた文字を判読することができて、「5437右」であることが判明しました。
1945年秋、藤原洋氏が調布飛行場に通って撮影した軍用機の写真の中には、垂直尾翼に「37」の番号が付けられた百式司令部偵察機があると専門家が指摘しました。機体を整備や修理で分解した時に、どの機体の部品だったか分からなくならないように、機体番号(いわゆる製造番号)を部品に記しますが、日本陸軍機では、番号の全部を書かずに下2桁または下3桁を書くことがあったので、府中市の個人宅で「発見」された水平安定板は、藤原氏が撮影した百式司令部偵察機のものである可能性が極めて高いと考えられています。
調布飛行場の掩体壕を保存する会では、展示開催に当たって、戦後の調布飛行場に残されていた軍用機に関する情報を提供し、また、航空史の専門家に速報展示の開催を知らせました。その結果、何人もの専門家が会場を訪れ、部品が陸軍の百式司令部偵察機の尾翼の水平安定板であることが明らかにされました。
しかも、この水平安定板が取り付けられていた機体が百式司令部偵察機であるという以上の詳細な情報を読み取ることができました。それは、水平安定板に機体の製造番号を示す金属製の銘板が取り付けられていたこと、ステンシル文字が確認できたことの2点です。機体との結合部分に鋲止めされた銘板には、製造時の検印マーク「火☆」と製造番号「火第5471號」が刻印されていました。
水平安定板の所有者は、戦時中、空母の乗組員としてマリアナ沖海戦を経験しました。復員後、自宅近くに放置されていた水平安定板を回収して、蔵の中に保管しました。そのため、経年劣化が少なく、当時の色もよく留めています。関係者から寄せられた情報や調査によって、水平安定板の「正体」がここまで明らかにできたことで、所有者が長年保管してきた思いに応えることができたのではないでしょうか。
詳細な報告と水平板になぜ「5471」「5437」の2つの番号が付いていたのかの考察は、英太郎氏の資料紹介「府中市白糸台で発見された旧陸軍百式司令部偵察機の尾翼部品」(『新府中市史研究 武蔵府中を考える』第4号所収)をぜひご覧ください。
『武蔵府中を考える』第4号の入手方法
●府中市の施設で直接購入
ふるさと府中歴史館、市民相談室、市政情報センター、郷土の森博物館、観光情報センター
●郵送による購入
住所、氏名、電話番号、書名を明記して、現金書留封筒に代金500円と送料370円の計870円を同封して、下記まで郵送してください。
なお、複数冊、他の市史刊行物と合せての購入を希望される方は、事前にメールか電話でお問合せください。
送り先: 〒183-0023東京都府中市宮町3丁目1番地ふるさと府中歴史館 市史編さん担当
電話:042-335-4376/Eメール:bunkazai02@city.fuchu.tokyo.jp
2021年10月2日(土)~3日(日)に開催された第24回戦争遺跡保存全国シンポジウム東大和大会。初めてのオンライン開催で不安もありましたが、現地実行委員会のご尽力のおかげで充実した大会になりました。分科会に報告される方や司会・事務局も何度かのリハーサルを経て、スムーズな進行ができました。
現地実行委員会のお力で、たくさんの資料をデータとして頂けたのは、従来の大会にはなかったことで、オンライン大会の良さも感じました。
皆さまのご協力に感謝いたします。
オンラインのため参加できなかった方のために、現地実行委員会の方が中心となって大会報告集を作成しました。
下のPDFデータをダウンロードしてご覧下さい。
目次は全体会版の最初に、大会アピールは分科会版の最後にあります。
第24回戦争遺跡保存全国シンポジウムに参加した明星大学の学生からシンポジウムの実行委員会事務局に、社会学のゼミで戦争遺跡について話してほしいという依頼が寄せられ、2021年12月7日に学生が教室内とオンライン上の2つの方式で参加する授業が行われました。 20人程のゼミの学生が、毎週、交代で、自分が関心のあるテーマを取り上げて、それについてみんなで討論するというゼミでした。本来のゼミ生以外に、1年生も何人か聴きに来ていました。
依頼者の学生から、ゼミ生は戦争遺跡について特に知識があるわけではないので、「戦争遺跡とは何か/研究されている内容、研究を始めた理由/大学周辺にある戦争遺跡の説明/戦争遺跡が保存される理由/私たちにできる平和継承」などについて話してほしいという要望が寄せられました。この要望に応えて、「戦争遺跡を守る、伝える。〜平和のバトンを受け継ぎ、手渡すために〜」というテーマで30分程話して、その後、学生たちの討論が行われ、最後に質疑応答で終わりました。
祖父母や曽祖父母など、身近な人の戦争体験を聴いたことがあるか」と学生たちに質問したところ、意外にもほとんどの学生が「ある」と手を挙げ、次のような話が出てきました。
・聴いたけど、話をそらされてしまった(話したくないのかもしれない)
・戦後、埼玉の田舎でも食糧難でネズミまで食べたそうだ
・日中戦争と太平洋戦争の2度招集されたそうだ
・広島に行って被爆者の体験を聞き取るうちに、被爆時の体験だけでなく、戦後、被爆者がどう生きてきたかにも耳を傾けるべきだと気づいた
戦争体験者の語りを直接聴くことのできる場が、そう遠くない将来に失われること、それに代わって戦争遺跡がアジア太平洋戦争の歴史と現代に生きる人びとを結びつける貴重な存在となることを紹介し、いまを生きる私たちは、戦争体験に耳を傾けることのできる最後の世代、言い換えれば、いまの私たちこそが、平和のバトンを次の世代に渡すことのできるポジションにいる世代と言えるのではないかということを話の最後に提示しました。
次の全国大会は東京都の東大和市の予定です。
東大和の変電所跡と合わせて、調布の掩体壕とプロペラも見学したいです。